第10号(P.4~5前半)社史にみる戦犯企業・旭硝子の歴史

 韓国民主労総金属労組・旭非正規職支会の仲間が闘う旭硝子は、日帝を代表する戦犯企業のひとつです。今年2~3月の遠征闘争を取材するため来日した「ニュースミン」パクチュンヨプ記者の記事を、本人の了解のもとに抜粋して紹介します。(事務局)

イミョンバクが「強く勧めた」日本モデル企業旭硝子の歴史

旭硝子「当社は軍需生産に総力を結集して戦時に寄与した」

日本敗戦で打撃受けたが、朝鮮戦争を経ながら急浮上

「朝鮮動乱は思いもよらなかった幸運」

パク・チュンヨプ記者 2018年3月26日

 下請企業の労働者が労組を結成すると契約を中途解約して178人を路頭に放り出した旭硝子(現在の韓国法人は旭硝子ファインテクノコリア)は、日帝の戦争犯罪に積極的に加担した企業だ。

 旭硝子は日本三大財閥の一つで、軍艦島に朝鮮人を強制動員し、第2次世界大戦では特攻隊の戦闘機「零戦」などを製作した三菱系列の企業だ。社史には、戦時の満州~朝鮮地域での工場設立、耐火レンガ生産など、軍需産業に没頭した旭硝子の「寄与」が記されている。

 韓国人労働者を大量解雇し、労働部の解雇者直接雇用命令も履行せず莫大な利益を日本本土に送る旭硝子の姿は、侵略戦争の際に植民地に進出した日本財閥の姿と重なる。

満鉄と積極的な合作

 1925年、旭硝子は日帝が「満州」地域収奪のために設立した南満洲鉄道株式会社(満鉄)と共に株式会社を設立し、経営を一手に引き受けた。

○社史「(工場設立)作業は順調な成績を上げ、製品の販路は中国全土にわたり、当社海外発展の第一歩を輝かしく樹立した」

「軍需生産に総力結集し時局に寄与」

 日中戦争(1937年)が始まり、日本は本格的に戦時体制に突入。旭硝子も民需製品の生産を大幅に減らし、軍需製品の生産を増やした。鶴見工場と牧山工場は工場設備の一部を政府に提供した。

 日中戦争初期の1938年旭硝子生産品の中で軍需物資が占める比率は15%だったが、太平洋戦争突入後には30%以上に増えた。日本が真珠湾を襲撃した1941年、旭硝子は咸鏡北道(ハムギョンプクト)・清津(チョンジン)に耐火レンガ工場を建設。同年、朝鮮総督府とともに「朝鮮板ガラス販売株式会社」も設立した。また、航空機の油槽タンクに弾丸が当たっても油が漏れないようにする防御膜の研究にも没頭した。

○社史「当社は可能な限り時局産業への転換を図り、……重要な軍需資材の生産に総力を結集して、時局に寄与した」

「朝鮮動乱は思いもよらない福」

 敗戦後の「財閥解体」を経て新しく出発した旭硝子は、朝鮮戦争特需を経ながら急成長した。

○社史「このように朝鮮動乱は、まさしくわが国経済にとって『神風』であり、思いがけない幸いをもたらした」

☆ストに立った旭硝子の労働者

 第1次世界大戦期、日本は戦争の影響を受けて鉱工業労働者が急増した。同時に全国各地で労組が結成されてストライキも発生した。

 関東大地震が起きた1923年、旭硝子の鶴見工場の生産が中断された。ガラス窓生産を引き受け、増産に努めていた北九州市牧山工場では、35人の解雇に対して労組が2カ月以上もストライキに入った。

★写真は、牧山工場(左)と鶴見工場(右)

国際連帯共同行動研究所

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