第9号(P.6)シリーズ中東の話②
4月9日の「ナクバ」
日本アラブ未来協会 田中博一
*ナクバ・・・・・「災難、大厄災、破滅的被害」の意味のアラビア語。イスラエル建国前の英国統治時代から続くシオニストによるパレスチナ人追放の計画的作戦で引き起こされたパレスチナ人虐殺・追放のこと。デール・ヤシーンの殺戮(後述)はシオニスト軍事秘密組織がダレット計画と呼ばれるパレスチナ人追放計画の一環として起こされたことが明らかにされています。注目しなければならないのは、シオニストによる虐殺行為は戦争中だけでなくイスラエル建国前から組織的・計画的に原住民を追い出す作戦として行われていたことです。
パレスチナはアジア・ヨーロッパ・アフリカを結ぶ十字路に位置するため、有史以来多くの民族が往来し、また古代のエジプトからアッシリア、バビロニア、ローマなど周辺大国の支配下に置かれました。パレスチナの住民はこの支配者間の戦争、争いの間は家に鍵をかけ、安全な所に避難し、戦争が終わればまた元の所に戻り、以前と同じ生活をするのが常でした。しかしこのナクバでは事態が収まっても帰還は阻まれる新たな事態に直面したのです。
イスラエルはパレスチナの占領を続け、難民の帰還を拒みつつ、不在者資産取得法、未耕地利用緊急法、緊急時土地収用法などで土地を取り上げています。
パレスチナ難民の帰還権は1948年12月の国連総会決議194号で認められましたが、イスラエルにとって帰還権の承認は国家の存亡にかかわる問題となるため、その受け入れを一貫して拒否し続けています。パレスチナ難民が帰還権を放棄することは戦争勝利国による不法な占領を認めることになります。パレスチナ人にとって家の鍵は帰還の象徴でもあるのです。
ナクバについてのパレスチナ・ベツレヘム大学教授の私信を紹介します。
70年前の1948年4月9日、私の母の友人ハヤー・バルビジ(当時二人はエルサレムの師範学校で学んでいた)は故郷のデール・ヤシーン村に帰ることにした。それは、私の母が彼女を見た最後になった。彼女は(故郷の)学校で子どもたちと一緒に殺害されたのだ。
デール・ヤシーン村の殺戮は当時のシオニスト軍事組織による民族浄化期に行われた最初で最大のものではなかった。しかしそれは不吉な予感をなす象徴的なものであった。その計画された効果は村人たちの恐怖を増大させた(生き残った村人はエルサレムの通りを歩かせられ、拡声器は差し迫ったさらなる虐殺の警告さえ行った)。実際にシオニストによるイスラエル建国に至る6週間に幾十もの殺戮が行われ、534の街や村が無人と化した。文化的多様性と宗教的多様性を持ったパレスチナをイスラエルというユダヤ教国家にするための、20世紀における奇っ怪な企てが行われたのだ。
70年後も殺戮は続いている。封鎖によって、じわりじわりとジェノサイド(組織的大虐殺)が企てられているガザで、「土地の日」の平和的な抗議者に対するイスラエル軍の狙撃手による死者は現在までの10日間で数十人に上り、何百もの人が障害者にされている。(2018年4月9日)
ホロコーストの傍観者であった者は今もパレスチナ民衆の虐殺を傍観しているし、シリア難民を救う手立てを知りません。
田中博一さんプロフィール
1950年、福岡県生まれ。2000年9月、東海地区のアラブ人と日本人の相互支援を目的とする日本アラブ未来協会設立に参加。同会長。
【著作】日本語アラビア語基本辞典改訂版(1998年)/
現代日本語アラビア語辞典(2015年)/現代アラビア語辞典(2017年)※いずれも鳥影社発行
(写真)
▼スイス、ドイツのボランティアと現地の青年と。ローマ時代から続くオリーブ園で(2009年9月)
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