『月報』第4号(ⅰ~ⅳページ)

ロシア革命100年記念講演 (2017.10.1 東京)

「労働者が天下をとった」

国際連帯共同行動研究所所長 弁護士 鈴木達夫


 2017年10月1日、東京にてロシア革命100年記念集会が行われました。ロシア革命を引き継ぎ、21世紀革命を必ず実現しようという熱気に満ちた集会の場で、国際連帯共同行動研究所の鈴木達夫所長が行った講演を掲載します。

はじめに

 「労働者が天下をとった」というタイトルを、あえて私は希望しました。「天下」という語は、昔から日本人民の中で国家権力を意味していた。動労千葉の故中野洋さんも「労働組合は天下国家を大いに論じなければならない」と、しきりに言っていた。

 そして、このタイトルは、私にとって個人的な記憶をともないます。私の父は、1900年初頭に生まれ、日本の第一次重工業プロレタリアートだった。小学校を出てから神田の専門学校に通い、京浜工業地帯の真ん中で旋盤工をしていた。旋盤工といえば当時は引く手あまた、人生のうち最も賃金を稼げた時代と言っていました。夕方になると暇をもてあました青年労働者らが父が住む月島(私も月島で生まれ)の街角にたむろしていた。月島というと、佃島や石川島播磨があり、重工業の中心地。そこへ「お兄さんたち、すぐそこの風呂屋の2階に大杉栄先生が来てロシアの革命の話をする。ちょっと顔を出してみないか」と近づいた人がいた。当時、風呂屋の2階はそのようにも使われていたようで。そこで黒板が用意されていて、大杉さんがいた。彼が黒板に「労働者の天下」、次に「冷忍」と書いた。父はこれらの文字ははっきり覚えていた。大杉という人は文字のセンスがありますね。

 アナーキスト・ボルシェビキ論争という日本の労働運動の帰趨をかけた論争が始まる直前の1918年ころでしょう、大杉栄というアナーキストが「労働者の天下」と書き、レーニンをほめる。父は活動家になったわけではないが、どうしても忘れない思い出としてあった。ロシア革命は日本プロレタリアートの心を掴んだ。労働者が天下をとり、ブルジョアジーを収奪し戦争を終わらせる。実に痛快な話だったのだと思う。

 ロシア革命は、人類史を画す重大なことをやった。アイザック・ドイッチャー。1926年、10代でポーランド共産党に入党し、ナチスの台頭に対するモスクワの指導の「余りの無関心」に党を離れ、その後ロシア革命の歴史家になった。その彼が、『ロシア革命50年 未完の革命』(1967年。岩波新書)で、ロシア革命は生産手段のブルジョア的私有を廃絶した、この事実は人類の意識のうちに大きく写っている、そこで提起された問題は今なお解決されていない」と述べている。

 ちなみに、それから50年後の岩波新書『破局の8か月』。欧米のブルジョワ民主主義実現のために「1917年2月から10月。臨時政府、ケレンスキー内閣がちゃんとやらなかったから破局した」。他方で、「レーニンに率いられたボルシェビキの声は、労働者民衆に確実に届いていた。ケレンスキー達の声は届かなかった」とも言う。変な理屈としか思えません。

戦争とロシア革命

 私たちは今、朝鮮侵略戦争を「始まる前にとめよう」と闘っている。同じ問題意識は、20世紀の初め、第一次世界大戦が始まる前にも、全世界の社会主義者や労働運動指導者は共有していた。「搾取と大衆的殺害の資本主義世界に、諸民族の平和と友好のプロレタリア的世界を対置せよ!」(1912年11月バーゼル宣言)

 ところが一年半後、第一次世界大戦が始まった途端に、数百万の労働者を組織していたドイツ社会民主党が軍事予算に賛成したことを始めとして、各国の社会主義者らは「自国の政府を守る」、つまり愛国主義・排外主義に転落していった。

 これを打ち破ったのがロシア革命だった。歴史上初めて、戦争を労働者の団結した力で終わらせた。ロシア革命の意義として語っても語りつくせない。

 史上最初の帝国主義戦争であった日露戦争。ロシアの敗北と1905年モスクワ蜂起。1917年の2月革命から10月革命に至る過程で決定的に重要だったのが、労働組合と工場委員会、及びそれらによる生産と分配の統制だったことは押さえておきたい。また、労働者兵士の代議員評議会、いわゆるソビエトの決定的意義と役割。工場労働者、兵士、農民から500~1000人の単位から代表が選ばれ、会議で議論し決議し、執行する。レーニンが『国家と革命』で「おしゃべり小屋」を超えるものと提起した、コミューン型の国家形態。

 そして4月テーゼ。「全ての権力をソビエトへ」で有名だが、その第一テーゼは、戦争問題。いかに戦争を終わらせるか。「リヴォフ一派の新政府のもとでも、政府が資本家的な性格を持っているため、戦争は、ロシアについては今なお、無条件に帝国主義的強盗戦争であって、この戦争に対するわれわれの態度の問題で、『革命的祖国防衛主義』にいささかでも譲歩することは許されない」と断言した。 

世界史の新しい段階

 ロシア革命は世界史上初のプロレタリア革命であった。労働者の国家を打ち立て、戦争を終わらせた。世界史的には、資本主義から社会主義、共産主義への過渡期を切り開いた。どこに向かっての過渡期なのか。

 「プロレタリアートの解放はただ国際的出来事でしかありえない」(エンゲルス)。資本主義社会は、世界貿易と世界市場を歴史的前提として成立してきた社会。それをひっくり返して、より豊かな社会をつくるのは、当然にも世界史的に単一の階級として生み出された労働者階級による世界革命いがいにあり得ない。この世界革命に向かって革命ロシアは前人未踏の道に踏み出した。しかし、大きな困難に直面した。スターリン主義の問題がここで登場する。ロシア革命を今日的に語る場合、最大のテーマはここでしょう。

 1991年ソ連の崩壊を機に、「資本主義の永遠の繁栄」とか「壮大な実験は失敗に終わった」という議論が盛んだった。皆さんも、今日の集会にお仲間を誘う時に必ず出てきた議論ではないか。私たち弁護士の中でも、共産党系の人からの「生きる原理がなくなった」と“転向”表明が少なくなかった。対して、「崩壊したのはスターリン主義であって決して社会主義ではない。世界に賃労働と資本の関係は続き、労働者は資本主義の墓掘り人なのだ」と切り返した。

ロシア革命の波及

 1919年、第3インターナショナル(コミンテルン)が結成される。ドイツ・キール軍港の水兵の反乱、ベルリンゼネスト、その渦中でローザとリープクネヒトが虐殺された。1920年フランス社会党とドイツ独立社会党大会がコミンテルンへの参加を決議する。イギリスでは、ロンドンの沖仲仕がロシア干渉戦争に参戦するポーランド軍への軍需品の積み荷を拒否し、1925年には炭鉱労働者の大ストライキが闘われ、翌26年5月、軍隊までが投入された9日間のゼネストはイギリス労働運動の最も誇るべき歴史の一つであった。

 ロシア革命の北東アジアへの波及として、1918年日本の米騒動がある。ロシア革命に対する反革命干渉戦争の先頭に立ったのが日本帝国主義だった。7万3千人の兵力をつぎ込み、1925年までシベリアに居座った。その出兵のために米の買い占めが始まり、特に日本海側での米価がひどく騰貴する。富山県魚津の漁師のお女将さんらの決起に続き、関西から全国各地に50日間・数百万人の暴動に拡がり、10万人の軍隊が投入された。その根底には、冒頭で述べた東京・月島の青年労働者たちと同様、ロシア革命への共感があったと私は考える。1920年には溶鉱炉の火が消えた八幡製鉄所大ストライキ、日本最初のメーデーも敢行された。1921年に全国水平社が設立され、また三菱川崎造船所のストに軍隊が出動した。

 1919年朝鮮の3・1万歳独立闘争、中国の5・4抗日運動。1922年にはコミンテルンの指導下に「極東勤労者会議」が開かれ、中国、朝鮮、日本がロシア革命を引き継ぐ東アジア革命が課題となり、とりわけ未だ脆弱であるけれども日本プロレタリアートの動向がその鍵を握っている、と決議された。

スターリン主義の発生

 1923年ヨーロッパ革命の波が一旦は引く。ロシア経済は、干渉戦争・内戦の過程での戦時共産主義で疲弊し、「ネップ(新経済政策)」が採用される。特に農民への譲歩として、レーニンに言わせると「新たな攻撃をうむための撤退」だった。

 確かにロシア革命は世界史の新たな段階、社会主義・共産主義への過渡期を切り開いた。しかし、後進帝国主義の打倒から出発し、世界革命の遅延と孤立を強いられながらも、ロシアは社会主義建設に向かって半歩でも前進しなければならない。他方世界革命の砦として存在し続けなければならない。この一個二重の困難と闘いに直面していた。

 この困難に屈服し、世界革命を裏切って行ったのがスターリン主義だった。労働者階級の革命性を信じられなかった。スターリンは、その屈服と絶望を合理化するために「一国でも社会主義は建設できる」、すなわち一国社会主義論を唱えた。トロツキー派との熾烈な党内・党外の闘いの末、そのスターリン主義がソ連共産党の正式な方針とされ、世界革命にしか社会主義の勝利はないというマルクス主義・レーニン主義の原則を変質させた。

 また、「労働者階級の解放は労働者自身の事業である」原理も葬られた。労働の「質と量」による分配。労働者の無権利と強労働。社会と生産の主人公であるべき労働者階級が、強大な官僚の支配下に置かれる。暴力的な強制と残虐な手段をもってする農業集団化。民族自決権・自治権を蹂躙した大ロシア民族主義。そして、恐怖政治。強制収容所とモスクワ裁判。ロシア革命を闘ったボルシェビキのほとんどが、1937年から39年にかけて反逆罪で銃殺された。スターリン主義が人類に与えた害悪の一つは、「社会主義とはこんなものか」という幻滅だ。

 だが、現実の歴史に及ばした害悪は、そのような次元にとどまるものではない。1929年世界大恐慌から始まる再度の世界革命の現実性の前に、スターリン主義は文字通り反革命として登場した。「第二次世界大戦は民主主義とファシズムの戦争」というのは、帝国主義戦争の一方に加担・参戦し、かつ各国労働者階級の革命への決起を圧殺していった事実を偽るためのデマゴギーにほかならない。

30年代革命とスターリン主義

●ドイツ

 29年世界大恐慌を決定的契機にふたたび革命の波が訪れる。ところが、恐慌後初めての総選挙でのドイツ共産党の綱領は「ドイツ人民の社会的民族的解放」と、ベルサイユ体制打破と叫んで対外侵略の体制を固めていたヒットラーに迎合した。その選挙でナチスは第二党、共産党が第三党。さらに32年7月、アルトナという街でナチスと労働者の市街戦が闘われ労働者18人が殺された(「アルトナの血の日曜日」)。共産党は、「ナチスに対する個人的テロ禁止」なる党決議に反するとして、労働者が決起した銃撃戦を公式に非難する。

 そして、有名な社会ファシズム論。「ドイツのファシズムが権力につくのが早ければ早いほど、ますますファシズムは力を使いつくし破産するだろう」、「戦争とファシズムがプロレタリア革命の途上の主な障害物である社会民主主義の影響力の根幹を掘り崩し粉砕するであろう」。主敵は社会民主主義だということで、ナチスが交通労働者のストに参加する。他方、共産党がナチスの決起集会に参加して演説する。

●アメリカ

 『現代革命ライブラリー』に詳しく展開されているように、1934年に三大ストライキが闘われる。トレドの自動車部品工場、ミネアポリスのトラック運転手、サンフランシスコの国際港湾労組。失業者の労働組合も応援に駆けつけて、警官隊や州兵の銃撃・虐殺にひるまず対峙して戦いぬいた。ところが、アメリカ共産党は、ルーズベルト支持・ニューディール支持を打ち出す。このニューディールは、教科書では素晴らしいものとして書かれているが、ナチスと同様の国家独占資本主義政策にほかならない。共産党は、これに労働者を動員し挙国一致体制に翼賛する。さらに決定的だったのは1939年の独ソ不可侵条約。1カ月前まで義勇軍として「敵ファシスト」と闘っていた党は大混乱に陥り、党員は激減した。

●フランス

 有名な人民戦線とは、ブルジョアジーとの統一戦線であった。コミンテルンの「一国社会主義」路線は、ソ連を防衛するために帝国主義との対決を避ける、絶対にプロレタリア革命を起こさせない、ブルジョワ民主主義でとどめておくべきという反革命に徹底する。1936年レオン・ブルム人民戦線内閣登場直後の革命記念日には、赤旗ではなく三色旗、インターナショナルの代わりにとラ・マルセイエーズ。工場占拠ストの拡大にブルム内閣は武装警官を派遣、またファシスト抗議の労働者デモに人民戦線政府の警官隊が発砲、死者5人、負傷者数百人(「クリシーの流血」)。37年6月ブルム内閣は総辞職し、人民戦線は崩壊した。

●スペイン

 オーウェルの『カタロニア賛歌』などで十分ご存知かもしれません。1934年10月アストリアス鉱山労働者が蜂起し、3万人の民兵が形成されて各地でコンミューンが生まれる。35年9月、「マルクス主義者統一労働者党(POUM)」が、「ロシア10月革命とレーニンとトロツキーの指導下にあった第1回~第4回のコミンテルンの路線を受け継ぐ」と宣言して発足した。世界的にこの時代における最も戦闘的な政党だったと言われている。しかし、ソ連がスペイン内戦に介入し、「POUMはトロツキスト、挑発者」として指導部は殺され、その義勇軍はせん滅される。スペイン共産党は「プロレタリア独裁を目指すのは絶対に誤りである。われわれの動機は民主主義的共和国の防衛である」と言いつつ、39年3月にマドリードは陥落した。

 その5カ月後の39年8月、独ソ不可侵条約が結ばれ、9月1日ドイツがポーランドに侵入、17日ソ連も進駐した。その直後ソ連は、ポーランド国民軍の幹部数千人を殺して「カチンの森」に埋めた。また、44年8月のワルシャワ人民が地下水道を使って蜂起した際に、赤軍はワルシャワ郊外10キロまで達していながら、それ以上は前に進まず、あえてその蜂起を見殺しにした。映画の『灰とダイヤモンド』に繋がる歴史だ。

●日本

 日本共産党が1922年に設立されるが、翌年の関東大震災時の朝鮮・中国・社会主義者らの虐殺を見て解散する。26年に再建されるものの、当面の革命はブルジョア革命だという路線。28年3・15弾圧、4・15弾圧、33年小林多喜二の虐殺。鍋山ら共産党幹部の転向声明。私は若い頃、「戦争反対をなぜ貫けなかったのか」と、父に問い詰めたことがあった。父は二つあげた。大杉栄の虐殺。あの頃はボルシェビキ派(日共)より人気があり、スキャンダルでも有名だけど人間的だったと言っていた。もう一つ、自分に最もこたえたのは日共幹部の転向声明だった、と。

戦後革命の嵐

 スターリン主義の抑圧・裏切りにもかかわらず、世界の労働者階級は戦中も戦後も決起し続けた。朝鮮の大邱蜂起(46年)、済州島4・3蜂起(48年)を頂点とする戦後朝鮮半島の内乱情勢。それを潰すための50年朝鮮侵略戦争であった。

 日本の戦後革命。政府が1ヶ月間機能しない状況まで、日本の労働者階級が決起していった。読売新聞スト。2・1ゼネスト。東宝争議。

 49年の中国革命。ヨーロッパでは、ギリシャのパルチザン闘争。1956年ハンガリー革命。こうした人民の闘いが世界革命へ発展するのを阻止するものとして、帝国主義とスターリン主義による世界分割支配体制が存在し、91年ソ連が崩壊した。

新自由主義の破綻/スターリン主義の打倒

 一国社会主義の破産、同時に資本主義もその生命力を喪失して、新自由主義なる資本主義の絶望的な延命策に走った。新自由主義とはよくぞ言ったものだ。このイデオロギーと政策を提唱したフリードマンら「シカゴ学派」と言われる連中が、自ら新自由主義と称した。資本主義をその自由主義段階、チャーチスト運動や工場法以前の時代に戻す。「血に染まり火に燃える文字で人類史に刻まれて」労働者階級が世界史に登場した時代、団結や連帯など存在しなかった社会の再現以外に資本主義の生き延びる道はないとした。

 しかし、今やその新自由主義も破産した。新たな労働者階級の闘いが全世界で始まっている。アメリカでもドイツ・フランス・イギリスでも、労働者人民が生きるために、戦争と貧困の根絶に向かって立ち上がっている。先頭に立つ韓国・民主労総と1700万人民の闘いをつぶし、朝鮮全土を再度帝国主義が直接支配し、さらに中国スターリン主義体制を転覆するための朝鮮侵略戦争が目前に迫っている。北朝鮮スターリン主義が一方の当事者になり、その本性を露呈している。金正恩の口から、世界の人民への連帯と決起の呼びかけが一言でも語られているだろうか。韓国・日本・アメリカの労働者人民は、核兵器による威嚇と殺戮の対象でしかなく、しかも、核保有国としてアメリカ帝国主義との共存という幻想を追い求めているのだ。この戦争情勢の真っ只中で、韓国民主労総は、9月4日、「どんな理由があろうと、朝鮮半島での核対決は南と北のすべての民衆の災害であるだけでなく、全世界のすべての国に拡大される人類的な大災害として、絶対に許すことができない。」と宣言した。帝国主義とともにスターリン主義も打倒されなければならない。

世界革命へ

 確かにスターリン主義はいまや1930年代のような力はない。しかし、日本階級闘争をみるだけでも問題は一目瞭然である。ソ連の崩壊を「覇権主義の誤り」とごまかし、「資本主義の枠内における改良をめざす国民の党」などと言いなす「共産党」である。中国・北朝鮮という残存スターリン主義体制の打倒にとどまらず、労働者自己解放の思想と闘いに必ず反革命として登場するスターリン主義を粉砕して、本物のマルクス主義を労働者階級の手に奪い返す闘いは、世界革命完遂の途上において絶対不可欠の課題である。

 私は、ロシア革命の継承ということを、この次元で考えたい。つまり、労働運動と国際連帯の復権であり、そのなかから生み出される労働者党と新たなインターナショナルだ。プロレタリアの団結。「共産党」と言うか「無産党」か、論争された頃があったそうだ。一切の生産手段を剥奪され、自分の労働力を商品として売る以外に生きられない、まさに無産の民。その団結をもって戦争と貧困を撲滅し、人間が人間である共同性の奪還に向かって私たちは闘う。それがロシア革命が切り開いた世界史の新段階。韓国の民主労総との国際連帯と日本プロレタリアートの誇りにかけて、われわれは自国政府を打倒して世界革命に進撃しようではありませんか。<了>

国際連帯共同行動研究所

新たな労働者の「インターナショナル」の建設を目指す研究所です。